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毎日の出来事を何となく綴る日記。

 
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ハルシオン・ブルー外伝二十二




(――ぼくらの出会いを、)




ハルシオン・ブルー外伝 22


開いた、と思ったらもうだめだった。腹の底から嗚咽のような雄叫びのようなのが湧いた。白虎が代わりに吠えて、崩れた術力の波濤をくぐるように突進を開始した。



 ルウは、織里の白虎に乗って、上空から京都に飛来していた。もちろん、ユウヒと亘も一緒である。
 京都に戦いに行く、と四人で決めてから、官軍との采配のやりとりもそこそこに、ルウ達は京都へすっ飛んでいった。戦いに行くのはいいが、八代の結界という大きな障壁がある。ルウには大結界を壊した経験があるが、外部から崩壊させるには、それこそ、神霊一体消費するほど、術力が要る。それは無理だった、内側から結界が壊されるのを待つしかない。
 ――が、当主四人はそのとき、完全に「キレて」いた。様々な駆け引きや、まったく晴れない真相への暗雲、そして、ほんの少しも分からない仲間達の安否。これらを総括して、さらに、五十嵐ルウという稀代の見切り発車少女が、その狂気を伝染させて、笑顔の織里はもちろん、今まで論理武装して平静を保っていたユウヒや、しょげかえっていた亘まで、ここで「待つ」という選択をしうるテンションに無かった。
 当主四人がすっからかんになるまで、結界を攻撃すれば、あるいは、神霊一体ぶんの代価に充当するのではないか。結界が開いたあとの余力など、野となれ山となれ、ルウが「開けコラー!」という怒声とともにまず第一撃。その後、第二撃をお見舞いしようとしたとき、織里がルウを制した。
「待って! なっちゃんの術の気配がする」
 ――一刹那、結界の内側で、信じがたい術力がふくらんだ。そう、ちょうど、神霊一体分あるのではないか、というほどの、すさまじい圧力。その爆発で、久住院を覆っていた結界は、あっけなく、ぱん、と内側から破けたのである。


――開いた、と思ったらもうだめだった。腹の底から嗚咽のような雄叫びのようなのが湧いた。白虎が代わりに吠えて、崩れた術力の波濤をくぐるように突進を開始した。
経験があるからこんなにたぎるのだ。五十嵐ルウは呼吸も止めて、崩れる結界の雨を浴びていた。あの日の光景に酷似していた。ただ今日はその向こうの水平線でなくて、仲間達の家を臨んでいた。
凄まじい海流の中全員が目をめいっぱい瞠っている、どんなだれも見過ごす気はなかった。
あの長い砂利道が一本の藁のように眼下に見える。その先に山に抱かれるような本堂。織里が白虎に降下を命じる。この白虎で降下って……と、ルウがデジャブを感じる間に、虎は降下というか、特攻を開始した。亘が死にそうな悲鳴を一度上げて静かになった。
ルウの耳の空圧がぷちん、と切り替わったのと同時に虎は地面に突き刺さる。
鞭打ちになりかけた首をさすりながら、亘を現世に殴って戻し、織里とユウヒに目配せして、ルウは頷いた。よし、行こう。
――「ふふ、」と穏やかな笑い声が小さく聞こえたのはその時。微かだったが、砂塵を染み渡る湿気のように四人の耳に伝播した。

「むちゃくちゃなんだから。誰かけがしてない?」

本堂の手前の、大門の礎石の所に、白髪の青年が腰掛けていた。紫苑色の着流し、長身痩躯の猫背ぎみで、ゆっくりと煙管を吸っていた。丁寧に煙をはき出してから、もう一度微笑む。
 四家鷹久だった。
全員の空気が、ぴん、と張りつめたなか、させないわよ、とまず口をきいたのは織里だった。
「操舵は私だもの」
 鷹久は、肩をすくめて、
「それにしても生傷だらけだ。……ああ、ハルに会ったんだねぇ」
ぴくり、と亘の肩が震えた。しかしその後は迷わなかった。今まで戸惑っていた少年の視線が、ぴたり、と鷹久に向いた。
「びっくりだった?」
「鷹久兄さん、話してくれる気はないんですか」
「ゴメンよ。ついでにここ、通すなとも言われてんの」
 また紫煙を吐き、煙管の灰と火種を地面に振り落として、四家当主は初めて腰を上げ、正面から四人に向いた。もう一度「ゴメンよ」、と本当に困ったように口の端を少しだけ持ち上げて、鷹久は煙管をそのまま投げ捨てて――それが地面につく前に、四人の目の前に現れた。
 全員の息が止まる。神父の、、、、とルウ達が反射的に退く――その一瞬前に、
 既に白虎の巨大なあぎとが鷹久を捉えている。
 織里が「西瓜っ」と叫び、その白い牙が鷹久の脳天にかかる、と、同時に、四家鷹久は、歯を見せてにやり、と嗤った、、、――次の瞬間、白虎が顎をがくんと引いた、、、。織里が目を瞠る。四家鷹久はその巨大な白虎ののど元のあたりで静かにたたずんでいる。その手のひらは、ゆっくりと、虎の柔らかな体毛を撫でている。
 何で、と四人が口走る前に、鷹久が笑った。
「……オッサンの術はね、本質的には、相手にオレの術力を混ぜることにあるんだよ」
 この子は織里ちゃんの術力のカタマリだもの、と四家当主は静かに目を伏せ、白虎の口元を優しくなぞっていた。白虎は全く逆らわない。いや、語弊がある。白虎は今や、四家鷹久に従っている。
 書き換えられたのだ、、、、、、、、、。六東織里が、瞠目を眇めた。今まで治癒術にしか、その能力を使用してこなかった四家の、匿されていた真髄を見せられたのである。
「みんな先行ってて。私、西瓜、返して貰ってからいくわ」
 六東織里が、涼しい顔で鷹久と、それに従う虎を見つめながら、きっぱり言い切った。亘が、うう、とも、ああ、ともつかない、情けない声を出しかけたが、それを上書きしてユウヒとルウが、合点、と声を上げ、迷いなく鷹久へ突進を開始。
 走る二人の前に突き出された亘は、ええっ、ちょっと、虎が、虎がこっち見てるんだけど、と喚くが無視される。
 「ちょっと、ちょっと、ちょっと、ちょっと待ってええ」と亘が半泣きで叫び、鷹久と白虎に衝突しかけ――た、ところで、亘を含めた三人の姿が、パッと消滅。そして、大鳥居のすぐ向こう側で、人数分の「ぐぇっ」と着地の騒音。
「通すなって、言われたんじゃないの」
「そうだけどさぁ~、回復要員のオッサンがよ? 当主四人は無理でしょう。織里ちゃんだけで、精一杯よ」
「鷹久兄さんったら、ひとの虎とっといてよく言うわ。その子お気に入りなの。返してくれないかしら」
「そしたら、オレ、ボコボコにされちゃうんでしょ?」
「させないわよ。私がするの」
「なにそれ。怖いわー」
 だって、と六東当主は、栗色の豊かな長髪を揺らして、口の端を上げた。他人の瞳をまっすぐ見つめる、潔い笑みだ。鷹久は少しまぶしそうに目を眇めた。織里が懐から大量の術符を取り出して、一つずつ丁寧に舐めてから空中に放る。白い半紙は中空で、それぞれ、六東当主が従わせる猛獣に変化する。その巨大さたるや、それぞれが巨岩のようである。あらら、と舌を巻く鷹久に、六東当主は初めて微笑みを顔から取り去って、静かに、その目を細めた。
「最後に教えて。だれに命令されているの」
 四家鷹久の方は笑みを消さなかった。肩をすくめて、「オレは九重にしか従わないよ」と言う。
「でも君たちはルウちゃんに導かれた。ねぇ、君たちはさ、うまく踊れよ」
 
 ――神父に見つからないように。















「織里姉さん、鷹久兄さん、大丈夫かな……」
「大丈夫なわけあるかい、喧嘩やで。どっちかボッコボコになるに決まってるやん」
「ぼく、鷹久兄さんがボコボコにされるに一票」
 珍しく意見合うやんか、とユウヒが鼻を鳴らした。三人は久住院の本堂に向かっている。ようやく入れた京都の久住院。やるべきこと、そして伝えるべきことは山のようにある。五十嵐ルウは双眸を強く、常に遠くを睨むように寄せていた。
 それにしても、一ノ瀬春木といい、四家鷹久といい、彼らの動きに必ず影を見せる、神父の気配はどういうことなのだろう。奴自体の気配は、この久住院に戻ってきてもまるでしない。だが、絶対にまだ終わっていない――鷹久は、刃音が神父を消したと言っていたが、ルウには引っかかるものが残っていた。
 神父は誰かに召喚された神霊ではない。なにか、得体の知れない目的の為にこの国に来ている。そして、我々はもしかしたら、彼の思い通りに二派に分かれ、つぶし合いを演じているのかもしれない。
 ――だったら。だったら、六年前は間に合わなかったが、今度こそ、走っていって怒鳴りこむのだ。神父がいるなら、もう一度ぶん殴るのだ。もう、間に合わないというのはゴメンだ。ルウはもう一度、自分の双眸をギュッと寄せて、これからしばらく、目に映るもの全て睨み付ける眼光を決意した。
 本堂に着いた。空から特攻した以外は、正面から突き進んでいるのに、四家鷹久以外の障害がない。本堂は気味が悪いくらい静かで、巨大な黒い影が息をひそめていた。ほんの一日ほどまえ、神父と戦った本堂の手前の砂利敷きの庭も、そのようなことを都合良く忘却したかのように、整然と白光りしている。誰もいない。
「ワタ坊、気ぃ張っちょれよ」
「え!? せ、先生、何か気配を感じたの?」
「イザという時はお前で避難するやん」
「自分で逃げてよっ!」
 冗談に決まってるやんか、とユウヒがニヤリとし、亘の背中を思い切りひっぱたいた。「でも、頼りにしとるで」。
 ルウはそのやりとりを見ながら、とがらせていた目線がややゆるみ、口の端が持ち上がるのを感じた。
 だが、その次の瞬間に、背中をゾッと割くような悪寒が降ってきた。他の二人も同じだ。全員、ほぼ同時に本堂の屋根の上を見上げた。
 さらに耳元で、ばりっと空気が裂ける音。視界の先端に白刃の弾丸、亘が「危ないっ」と叫んで、ユウヒとルウを後ろへひっぱった。三人が尻餅をつくと同時に、空から降ってきた銀色の刀が地面をたたき割っている。その柄を握り、泰然と佇立しているのは――空色のサムライであった。
 もう誰からも絶望のため息は漏れなかった。「ルウ!!」とユウヒが叫び、
「先行け!」
 その間にも、サムライが刀を抜いて間合いを詰めた。ユウヒが咄嗟に顎を引いて避けるが、先端が確実に首を捉えている。「くぅっ」と呻いたと思うと、ユウヒはその場から消滅。白刃は空を切った。サムライの――一ノ瀬春木の、暗い目がすっと細められる。その背後に、二人分の着地音。三条亘が、ユウヒを抱えて地面に転んでいた。
「ルウ、行って!」
 五十嵐ルウは、むずむずと胸中を這い回るものを感じていた。それは、もちろん、愉悦や、快感や、そういうものではなくて、だが、溶岩のように爆発する激情でもなくて、ちょうど、火種が、薪に宿って、その身をふくらませようとしている、あの瞬間――それは血が湧く、、ような『勇気』。
 「おうっ!!」と元気に答えて、ルウは本堂へ駆けだした。背後で、一ノ瀬春木から、あの黒い気配が膨らむのを感じたが、ユウヒがそれを妨害する。
 ルウはそれを背中に、恐ろしく静かで、暗い、底の知れぬ洞窟へ、久住院本堂へと駆け抜けた。

















「な、なにこれ。どうなってんの……」
 なちは、あたりに満ちていた閃光が収まったのをかんじて、目を開けて、呆然とした。自分のまわりの結界はもちろん、久住院に張られていた結界の気配も消えていた。辺りを見回すと、爆風のせいか、いくらか障子が倒れていた。あたりはまだもうもうと埃がたっていた。
「あ、あれ!? あの術本が……無い……!?」
 ふと手元を見ると、爆発の寸前まで持っていた紅い本が無くなっていた。衝撃で弾いてしまったのかと思って、あたりを探ろうとして、すぐ足下に、黒い服を着た少年が丸まって倒れているのを見つけてギョッとした。八代あわいだ。なちはさすがに動転して、「ちょっと!」と叫んで、煤だらけの少年を起こした。白い頬をひっぱたき、肩をゆさぶるが、薄く閉じた目が開かない。小さな手のひらの指がぴくりとする気配もない。胸に耳をあてると拍動はあった。なちは急いで、ちかくの瓦礫で指先を切って、術符に呪文を書き付けた。少年の矮躯にかざす。四家の術のまねごとだが、なちはこの家の術が一番苦手である。どうしても、かの当主のような効能を出せない。今回も、ほとんど気休めのようなものだった。
「ちくしょう……」
 それにしても、あの詠唱は何だったのか。あの詠唱がもたらした術が、結界の崩壊を招いたことは間違いなさそうだ。ふと目に付いたものだったが、自分は何故か最後に、「神霊」を喚ぼうとした――あれが、六年前に、五十嵐ルウが触れたという、神霊降ろしの詠唱なのか……。


「残念でしたネェ」


 ふいに、耳元に息が当たった。全身が悪寒を吹き出し、毛穴が粟立った。
 なちはあわいを抱えて、そのまま縁側の向こうへ飛び退く。そして、そこにたたずむ黒く細い人物を目の当たりにして、自分の息が止まる音を聞いた。

「アレはね、レギナを喚ぶ詠唱じゃないデスよ」

 似ていますけどネ、と、その青年は、涼やかな笑みを整った顔に浮かべた。プラチナブロンドの長髪が、曇天のにぶい日光の下で、ちらちらと光っている。長身痩躯、全身黒のカソック。そして胸元に、シルバーのロザリオ。
「詠唱はチャンとしなきゃ。でないと、違うモノを喚び寄せてしますマスよ」
 ――私みたいなネ、と、神父は親しげな笑みを浮かべた。

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ハルシオン・ブルー外伝二十一




 きっかけは、古倉の中でみつけた紅い本だった。
 それは見たこともないような紅だった。「それ」は、確かにいままでずっとそこにあった歴史を物語るように埃にまみれていたのに、今この瞬間まで全くそれに気付かなかったのだ。倉への出入りは常のことだったから、内蔵品はおおかた心得ていたつもりだったのだが。
 それは表紙が紅色をした上質な綴じ本だった。丁寧に扱われたのか、未だに型くずれはしていない。けれども如何せん経た年月が長すぎたらしく、表紙の題字は読みとれなかった。まるで見つけられるのを待っていたかのようにそれは、静かで熱く滾るような赤が湛えられていた。持つと妙な熱があるような気がした。
 なんともなしに、それをめくる。序文からしてよく分からない紋様が並び、曰く付きの書であることを知らせる。怪しんでぱらぱらとめくっているとふと、僕でも読めそうな字があった。
 それは複雑な紋様の中で、ひとつだけ走り書きで記されていた。記述のなかに割り込んだような位置に書かれているにもかかわらず、それは異様な存在感を放っていた。
 あたりは静かだった。時々思い出したように床が軋んだ。舞い上がった埃が沈殿していくのを感じる。唯一の通気口である天窓からかいま見える空が、とても青かったのを記憶している。



 一五三二年、夏。武蔵の国はその日も、未だ五月晴れと見まがうほどの長閑な陽気だった。


「んー……と? ……『生々流転』……『血流漂株』……『英風』…………『虎嘯風生』……?」





ハルシオン・ブルー外伝二十一





 英語なんか分かるかこの馬鹿っ、と、なちの癇癪で畳に叩きつけられた赤い本を、晴次が解読し始めて数刻経った。妹なら、まるで母語のように操れるのですが、すみません、と言うが、なちからしたら結構な早さで青年は赤い本のページを手繰っていっている。これは、神霊の本で、おそらく、大英帝国圏の魔術師が、この国の術士と交流した際の、そのお互いの精神的な在り方の交感について記したものである、らしい、というところまで解り、なちが、もちろん、その説明で神父を連想して唇をひん曲げた。しかし、晴次の「やはり神父は神霊なのですか」という言葉にさらに表情をひん曲げることになる。で、その赤い本が、以前五十嵐ルウが自分の神霊を召喚した時のものだということが解って、今度は怒りの前にポカン、とすることになる。
「なんで、五十嵐じゃなくて、ここにあるんだ」
「わかりません。ここに来たのは、私達以外では、四家当主と、あと、黒装束の小さな子供ですが」
「黒装束のチビ!」
 八代あわいか、となちは奥歯を噛んだ。やはり、アイツを含めた京都組に何かが起きたのだ。さもなくば、まるで邪魔だてさせないように能力者を囲っておく理由が分からない。鷹久兄さんが、何故、自分を連れ出しておきながら、ここに隔離したのかも――。
「……恐れながら」
 ふいにした晴次の声に、思考の深みから引き上げられて、なちは双肩をびっくりさせた。
「七野が五十嵐を厭う理由は、承知しているつもりです。でも、何故、あなたはそんなに、鷹久を慕うのですか」
「……今の状況と何の関係があるわけ」
「六年前、雑談が行く末を変える経験をしたものですから」
 五十嵐長兄は、手にしていた赤い本から、視線を上げて、なちを見た。彼がなちに慇懃な態度を取るのは、もちろん、当主というなちの立場を鑑みてである。でも五十嵐晴次の視線自体は、へつらいもしないし、まして従順な敬意を示しているものでもなかった。なんだか――そうだ、まるで、「兄」に叱られているみたいな――気になる。「六年前、」となちは癇癪をこらえて口を開いた。
「お前等が大結界壊してっ、あたしたちお役ご免になって! それでも御当主があたしたち守ってくれた、世の中も少しずつ生まれ変わってる。あたしたちは旧くなっていって、あたしたちは新しくなっていく。その中で一番最初に、いなくならなきゃいけないの、誰だったと思う!? お前ら、それ知ってて大結界壊したのか!?」
 癇癪を起こすまい、と思ったのに、どんどんと口から怒声が出てくる。なちは最後の方はほとんど涙目になっていた。いつものように、腹の底の、黒いどろどろしたものが、突然噴火を起こす類の癇癪じゃなくて、胸中にある、真っ赤な香辛料の粒が、ぷちんと弾けたような、そんな怒りであった。
「鷹久にいさんだ。四家は治癒の家だ。どうやってるって、自分の呪力を流して治してる。それに加えて、大結界にも呪力を流さなきゃなんない。そんなことしてたら、普通何年も保たずに死んじゃう。だから、四家んちの当主は、兄妹から呪力を吸って生きてきた」

 ――なっちはさァ、オッサンの妹と同い年なんだよ。知ってた?
 
 なちが最初に会った仲間が四家鷹久である。もう数年前だが、そのころから彼は今とあんまり変わらない、白髪で紫の着流しで、へらへらと笑っていて、なちの頭を撫でる大きな手はとても冷たかった。
 ――本当はねぇ、こういうふうにね、お菓子をあげたりね、頭を撫でてあげたりしたいんだけどねぇ。
 大結界は、作るのヤメタなんて、言えないもんねぇ、と、笑った彼の顔をよく記憶している。

「でも、大結界が壊れて、そんなことしなくてよくなって……! 鷹久兄さん、もう家族を苦しめなくてよくなったって、笑ってたけど、それって、鷹久兄さんが、もう誰からも力を貰わないってことだ。もう、本当に、近いうちに、あの人、……っ」
 ふいに鼻の奥が熱くなって、喉の奥がきゅっと締まって、目玉がじっとりとして、あっ、と思うが、まばたきをしたら、ぼろりと涙が剥がれ落ちた。頬をつたって、噛み締めた唇の間から涙が歯の間に染み込んだ。
「死んじゃうんだぞ。死んじゃう、いなくなっちゃうんだ」
 喋って頬のしまりがなくなると、ついに大粒の涙が、どこから出てくるのか不思議なくらい、ぼろり、ぼろり、と落ちていった。
 そう、四家鷹久は近いうちいなくなる。今は二名ユウヒから薬を貰って、きょうだいの妹共々なんとか生き繋いでいる。でも、何しもしなければ四家の人間は力を垂れ流していくだけだ。そして、何もしなくてよくなった時代を、鷹久はおそらく、生きるつもりは無いのだとおもう。
 五十嵐晴次はしばらく黙っていたが、視線はずっとなちの方に合わせたままだった。そして、「そうだな」、と頷いて、一瞬視線を落として、それからまた、なちの方を決然と見た。
「これで分かりました。四家鷹久は、少なくとも彼は、私たちの敵ではありません。確信してください」
「……え?」
「何故、あいつが、あなたをここに連れてきたか、考えていました。鷹久はあなたを守っているんです」
 ――その時である。
 すさまじい轟音を伴って、屋敷全体が、底の方から突き上げるように揺れた。思わず転げたなちを、晴次が受け止める。何だ、と能力者の反応で身構えて、二人は同時に、その目を瞠った。
「――ルウ、か!?」
 その力の感じは間違いなく、五十嵐ルウだった。晴次がらしくなく驚愕の表情を浮かべ、なちがその腕の中から我に返ったように飛び退いた。
「何だ、この揺れ……! 屋敷が大砲でも喰らってるみたいだ……!」
「屋敷自体にも八代の結界が張ってある筈です、そんな、突破できるものでは……というか、アイツは一体ここで何を」
 なちは今度こそ、部屋を飛び出した。廊下に沿って、部屋を囲むように結界が張ってある。が、それが今揺らいでいるのが分かった。屋敷にも結界を張っているなら、その結界がたぶん、おそらく、攻撃を受けている。しかも、たぶん、おそらく、いや高確率で、下手人は五十嵐ルウ。アイツ、あたし達ごとふっとばす気か!?、どうして、何があった!?と唸りながら、なちは結界の穴を探した。
 外に結界張り巡らせて、ここにも結界を張って、それにおそらく、遅くともなち達が京都の異変を知らされた時からそれは張られっぱなしだ。そして攻撃を受けているともなれば、たとい八代だろうが、限界を迎えていておかしくない。どこかにほころびがあっておかしくない。
 とりあえず、張り巡らされた結界の内側を、縁にそって走っていく。どこか、どこかに、穴があれば、なちの力でこじ開けられる。

 そうして目を皿にして駆けていたなちの視界に、ふと、黒い固まりが映った。結界、透明な壁を隔てて向こう側。ちょうど、硝子を一枚隔てているように、すぐそこにいるのに、触れられない所。その壁に背中をもたれて、黒ずくめの少年が座り込んでいた。
 八代あわいだ。

 最初、ぐっ、と心臓が締まった。驚きからか、極度の怒りなのか、よくわからないまま、なちは内側から結界を思い切り叩いた。透明な壁を隔てて向こう側の背中が、ゆっくり反応して、だがこちらを向こうとはせず、座り込んで投げ出した足の先がぴくりとしただけだった。こちらから見て、信じられないくらい、憔悴しているのが見て取れた。まるで迷子になって、さんざん彷徨したあと、疲れ切って途方に暮れているみたいな、そういうかんじだ。「お前……っ」と、怒鳴る声が震えた。
「お前、こんなとこで何してんだ。何で結界なんて張ってるの」
 八代あわいは答えない。黒毛の頭がすこしだけ動いた。
「守ってる相手が違うんじゃないのか……っ! なんでこんなとこで! ここから出せっ!!」
 とうとうなちが怒鳴ると、あわいは、やや間を置いて、蚊の泣くような細い声で「ことわる」と言った。
 その声を聞いて、ますますぞっとした。ほとんど生気がしない。なちは、どこか結界が弱る筈、という見込みが甘いことを知る。あわいは結界を弱めることをしない代わりに命を削っている。自分よりずっと小さなからだが、こちらが見ている間に弱っていくのを感じる。
「何いってんだ! なんで、ここまで……! どうして、他のみんなは!?」
「……もういない」
「ああ!?」
 もういない、だと。なちは京都で起きたことを必死に掴もうとした。「守ってる?」。五十嵐晴次も同じようなことを言った。鷹久はなちを守っている、と。
 すぐ目の前にいるのに、ほんの指先くらいのあつさの、透明な空気の壁が、八代あわいの胸ぐらを掴み上げることを阻む。
「……みんな、言っていたよ」
「え?」
「誰が……絶えても、七野は」
 『なちは生きていないとね』、と言っていたのは四家鷹久だけではなかった。一ノ瀬春木も、六東織里もよく言っていた。中でも九重刃音は、初めて会った時の第一声がこれだった。術家はこれから衰えてゆく。三条はすでに当主を失ってしまっている。四家もそう長くはない。でも、七野が全部覚えている。ずっと昔のぶんから、七野が覚えている。だから、これからは七野が大事なんだよ。
 『ルウと仲良くしてあげてね』、と最後に付け加えるのが、刃音の常套であった。
 ――『守っている』。なちは自分を庇ういくつもの背中に気づいた。その後ろで、無力に座り込んでいる自分にも気づいた。
「おれ、まだ新米の当主だけど、男の子だから」
 ぼんやりとした目で、中空を眺めながら、八代あわいは息を吸った。曇天に閉じこめられた湿った空気が口腔に、ひやり、とした。もう指先の感覚から無くなってきていた。先ほどの、屋敷を覆っている方の結界への攻撃が手痛い。さらに続けられると、過負荷が生体機能を凌駕してしまう。攻撃の波動は五十嵐家のものだった。五十嵐晴次はいま閉じこめている。当主のルウのほうだ。
 まさか、攻撃してくるとおもわなかった。だが、初撃のあと音沙汰がない。結界を破る目的なら、何故早々に止めを刺さない――?
「ふざけないで」
 背中を、結界ごしに、どん、と叩かれて、あわいは思考の海から現に引き戻された。七野なちが、すうっと大量の息を吸い込んだ音が聞こえたかと思うと、耳元で怒声が爆発した。
「あたしはみんなを見送るために、当主になったんじゃないっ!!」
 なちはふいに、足下に紅い本を見つけた、、、、、、、、、、、。さっき、晴次の部屋を出る時咄嗟に持ち出してきたのか、記憶があいまいだが、そのようなことを考える間もなく、反射的に、なちはその術本を掴み取った。五十嵐ルウが、神霊を喚んだ本。七野も知らない、大英帝国術士が書いた謎の術本。夢中でめくって、激情のあまり半分涙目になっていた視界に、ふと、なちでも読める文字が目に入った。視覚が得た情報は、脳みそを経由せずに、脊髄に反射して、喉から声が出た。
「『生々流転いきとしいけるもの こもごもるてんし』!!」
 なにを、と八代あわいが、ふらふらと視線を動かした。
「『戦乱在我せんらん、われをあらしめる』、『血流漂株ち ながれて しょをただよわせ』っ!!」
 

「ぶっ壊せ!! 神霊、レギナぁっ!!」
 
 

 
 

ハルシオン・ブルー外伝二十






(ねえ、こんなに苦しかったんだけど、どういうわけか、教えてくれる?)






ハルシオン・ブルー外伝 20









 彼の親族に、結局伝えることはしなかった。それは我々の、正直、甘えというか、どうしようもない希望的観測に大体由来していた。まだその事実の顛末を、誰も見ていないことと、なにより情報が錯綜していて、何が起きているのか、当事者たる当主たちにもどうとも出来ていない。
 四家の者達は、あちらから、吉野に来るのを拒んだということだった。当主の選択に従うということだ。せめて、シキガミだけ、結界のまねごとにように置いてきた、というのが六東の者の報告だった。
 吉野の山も、いつ攻め込まれてもおかしくない状況になってきた。一応、戦闘もこなせる六東家のものたちが、近衛のようにあちこちに張りついているが、彼らの力は、当たり前だがはかないものだ。本来術力というのは、その家の当主にのみ宿るもので、一族の者たちのは、上面のものに過ぎない。一方、官軍には外来の新式軍備が整っているのは自明だった、なにしろ、五十嵐がその貿易を支えていたのだから。

 内戦か、と、ルウはぼんやり中空を見た。そうだ、内戦だ。本当は六年前に、ルウが大結界を壊した混乱の折、コレが起きるはずだったのだが、九重当主がそれを止めたのだった。

 ……これ、『あの男』の差し金だって、思うつぼなんだって、知らせなきゃ。外洋が攻めてくるかもって。ぼくらは、国と戦うつもりなんか無いって、京都のみんなの意思は今のぼくたちの総意ではないって、伝えなければ、発信しなければならない。
 でも、動けない。身体の中心の、大事な機能がギュッと詰まった箱が転げ落ちてしまったよう。その箱以外に、なにもなかったのかと自分で呆れるくらい、なにも残っていない。
 春木にいさん。
 まだ誰も欠けていない、から、大丈夫、と抱きしめてくれた。あの感覚がまだ残っている。信じられなくて、喉が締まる。良い子だって、頭を撫でてくれた、あの感触も。
 彼が死んだなんて嘘だ。しかも、彼の死体を使っているのが、あの子だなんて、もっと嘘だ。
 もう、どうすればいいのか、わからない。 















 ――ああ、なんだ、マスター。実に簡単な答えだ。それはな……

 彼は振り向かないが、なんとなく気配で、ニヤッと、いつもの笑いを浮かべているのが分かった。あの、知識のない主を教え諭す時の、優越感ばりばりの、たちの悪い笑みである。

 ――気の迷いだ。たちの悪いものだから、死ぬほど疑ってかかれ。

 なんだと、コイツ、こちらが真剣に悩んでいるというのに、と、食ってかかろうとすると、いや待て待てと、手で制される。

 ――そういうものが、人間の生きる道にはうようよしてる。それはとても分かりやすくて、とても真実らしい。ある時は本当に真実だったりもする。信じて良いこともある。でも、マスター、それは疑うべきだ。分かりやすい真実は、君の目が曇ったときにやってくる。
 
 いつの間にかニヤニヤ笑いが消えている。でも、こいつは終ぞ真剣な顔をするということがない奴だ。やっぱり、どこか、気の抜けた雰囲気で息を吸う。

 ――でも、疑って、疑って、気が狂いそうになるほど、信じられなくなった頃に、何かが、そうだな、砂粒ほどの何かが君の手の中に残っていることがある。それは、もう絶対疑うな。死ぬほど信じてかかれ。

 なんだ、それ。いちいち難しいよ、と訴えると、まあ、仕様のない奴、という嘆息を吐かれて、それから水色の髪の毛を面倒そうに掻いて、

 ――確かめにいけ。這々の体でやっと握りしめてこそ、もう二度と君の中では揺るがない。あの日、君、俺の前でやってのけたじゃないか。なあ、空に果ては無かっただろう。
    走っていけ。殴りに来たろ? 声を聞きに行け。見届けただろ?
    

 それでこそ、俺のマスターだったぜ。最後にもう一度、空色のシキガミはニヤリと笑い、しかし二度と振り返らなかった。

















 うたた寝から目覚めた時、本当は泣き出したかった。情けないことに目の奥がじんじんして、今にもぼろり、と零しそうだった。でもこらえて、五十嵐ルウは考えた。あの日、丘を走って下って、海へ行った時、耳元を切っていた風音が、今にして鼓膜の向こうによみがえる。会いに行った時だ。アイツに。
 気の迷いだと、このやろう。あれから六年だ。お前の時間は経っていないかも知れないが。
 びゅんびゅんと風を切って走っていく。五十嵐ルウは考えた。じっと空中を睨んでいた。
 空が完全に白んだころ、ルウは仲間たちのところへ行った。







「敵対する」
 の、一言の時、ユウヒがあんぐりと口をあけ、織里の瞳が見開いた。寝起きの亘は、要領を得ないでぽかんとしている。
「刃音たち京都勢と、ぼくらは正式に離別する。アイツら、、、、を、敵と見なす。官軍にも『ぼくたちは関係ありません』って言いに行こ。そうすればぼくたちと吉野は手出しされないでしょ、宣戦布告したの、刃音だし。官軍斬ったの、春木兄さんだし」
 その名前を出したとたんに、ユウヒに胸ぐらを掴み上げられた。亘が条件反射のように、ユウヒを諫める声を出したが、ルウに向ける視線にも混乱が混じる。「見捨てるんか……っ」と、押し殺した声でユウヒが唸った。
「違う! そんっな疲れた目で何言ってんだ、ばーか!」
「あァ!? もっぺん言うてみい!」
「ばーかばーか!! お前が落ち込んでどーすんだ、ばーか!」
「三回言えとは言ってへんやろがあ!」
「先生、そういう問題じゃないよぅ!」
「そうそう、ルウちゃん。もって詳しく聞きたいわ」
 亘と織里がとりなして、ようやくユウヒはルウから手を離した。(また下手なことをいえば、飛びかかってきそうだったが)。ルウは大きく息を吸い込んだ。真新しい朝の、清明な味がした。
「僕ら、アイツらと戦うんだ。戦いに行くの、、、、、、
 行くんだ、と五十嵐当主が繰り返したところで、のこりの三人の、疲れていた瞳に、さっと光が射した。ああ、と得心した顔になり、それから、それぞれ何か言わんとして、それぞれ飲み込んだ。
 五十嵐ルウは仲間たちの、その顔を見て、耳元で風が強くなるのを聞いていた。



 その日の午前中に、反旗を翻した術家に対応すべく編隊された官軍の屯所の真上から、屋根を突き破って人が四人落っこちてきた。驚きふためく官軍を前にして、彼らはしきりに、そのうちのひとりの少年(ワタル、と呼ばれていた)を責め詰って怒鳴りつけたあと、官軍にある提案を持ちかけた。

 さらに昼時には、官軍は編隊を完全にやり直すことになる。対術家ではなく、全国の海洋警備にその戦力を充てるためである。術家のほうは、その四人がまさに千人力であった。
 彼ら、五十嵐勢――五十嵐・二名・六東・三条当主と、吉野山の勢力――が、京都の術士と反目することを宣言したからだ。(五十嵐勢という呼び名について、彼らのなかで、二名と争いがあったようだったが)。
 まさしく、餅は餅屋、官軍にとっては渡りに船で、術家の内紛は術家の者に鎮めてもらうことにした。また、元来貿易の重鎮であった五十嵐家当主から、外海からの来敵の恐れ有りとの知らせが入る。開国爾来、外洋に関しては彼らの言葉を信じるべしと言われてきた。術家のことは全て彼らに任せる代わりに、官軍はその知らせを信じたのだった。



ハルシオン・ブルー外伝十九


 一応、つかさどっている分野が呪術であるので、「呪ってください」系の進言が無かったわけではない(とても少なかったが)。在野にいけばもっと俗っぽい呪い屋がごまんとおり、それらは別にあやしいわけではなくて、町民の間で町民風に即して変容した呪術の有り様である。だから、たいてい、俗な呪いはそういうところへ行く。俗でない呪いというものの存在の有無についての論議は、また別にあろうが。
 五十嵐は、人の感情に由来するような呪いはしない。だから、にくしみに由来し、丑三つ時にわら人形と五寸釘でやるようなのは、まさに、民衆が自分たちにも出来るように、呪いという文化を咀嚼して進化させたものである。呪いとは、元来、形而下ではなく形而上にあり、俗世ではなく、神仏の世に近いデバイスである。五十嵐は、古く伝統的に、こちらの「呪術」を承継する。
 それを承知で、呪いを恃むひとびとというのは、やはりというか、風変わりだった。俗ではない感じだった。それはどちらかというと、祈りの形にひどく似ていて――空をもっと、低く低くしてほしい、とか、この夏、雨を降らせてほしい、とか、双子を孕んだが凶兆なので、ふたりをひとりに還元してほしい、とか――なるほど、呪術と祈祷が古代において、役割を二分していないようだったのに理解を示したくなる。
 というか、われわれはよく似ている、と五十嵐ルウはおもう。我々というのは、全国に散る仲間達のことだが、どの術様も、なんだか根源に祈りのようなものを見る。
 われわれの起源を研究するのは、既に七野が代々やってきているが、いつどこから、われわれが、在野の俗な部分から分離したのかはまだ分からない。それは、呪術と祈祷が分化した時のように、とても穏やかに、無血に、袂を分かったのかも知れぬ。

 紅い本を見ていて、そのことを思い出した。その、血のように紅い色。でもその中身が内包している、穏やかで、平和な、分化の証。ああこういうふうに、共生でも・共存でもなく、並行して共に在る――coexist――ことができたなら。




ハルシオン・ブルー外伝 十九



 出来損ないのシキガミ、という、亘の比喩がふと脳裏にひらめき、その的確なのに、脳みそのどこかが冷静に感心のようなことをしている。それは、視覚から運ばれてきた衝撃を受け入れがたくて、頭脳に発生した真空状態の、静かな部分での情動。その真空が、時間をかけて徐々に空気を吸い込み、その気流が驚愕と焦燥を連れてくる。
 そのサムライは、いつもの空色の着物を着ていた。あたりは暗くなり始めていたので、その鮮やかなのが、周囲の景色から浮いて出ている。
 春木兄さん、と、蚊の鳴くような声で漏らしたのは亘だ。いまにも泣き出しそうな声だった。
 一ノ瀬春木は、その空色の着物以外はまるで別人の風体だった。あの真っ直ぐ人を見る炯眼は玄くよどみ、健康的だった肌色は白く、なにより、身体全体から発露される雰囲気が違いすぎた。誰からも、兄さん、と慕われた青年の影もない。まるで夜の薄闇が人の形になったように、胡乱で、生気もない。その空気に覚えがあった。
 ひとつは、あの黒衣の侵略者の気配。
 そしてもう一つが、それだけは、信じがたいのに、絶対に認めたくないのに、絶対に嫌なのに、脳みそは自動的に結果を算出している。それだけ見知った「術」の気配が春木から漂っている。
 「嘘やろ……」と、ユウヒが今にも地面に膝をつきそうなほど、憔悴した声で言った。
 そんな、
 そんな、馬鹿な、

「――……ウ、ツロ、……」

 『ウツロ』。九重一族だけが司る、死体を統べる高等呪術。
 その事実が提示するふたつの現実に、そこにいた全員から血の気が引いていく。
 今、目の前にいる、大切な、仲間のひとりが、死体、であるということと、
 その彼を操ることができる、唯一の人物について。

 ほんとうは、叫びだしたかった。とにかく、この腹腔を支配する、とてつもなく巨大な真空が恐ろしくて、こわくて、ありったけ叫びたかった。でも出来なかった。ルウは立ちつくし、亘は隣で膝から座り込んだ。ユウヒの手が震えていた。唯一、織里の白虎だけが、静かに、だが湧くように、低いうなり声を上げている。織里はその虎の喉を撫で、
「……どうしたの、春木?」
 と、聞いた。『春木』は何も答えない。だんだん夜の闇が本格的になってくる。薄暗いのがあたりをうようよし始める。
 「――……行くな、って、言いに来たの?」。織里が続けた。驚くべき事に、彼女の口元にはいつもの微笑みが浮かんでいた。優しい、だが揺るがない、六東織里の平生の顔。
「あたしたち、行くわよ。ぜったい春木達を助けないといけなかったんだもの」
 通して、と織里が言った。
 『春木』は引かない。というより、現れた時のまま、まるでぴくりとも動かないし、その瞳すら、地面の一点を見つめたまま揺らぎもしない。
 通してよ、と織里が言った。
 春木達を助けないといけなかったの。
 ――『春木』は引かない。だが、初めてその真っ暗な瞳が動いた。うろうろと空中を迷い、仲間達のほうに向き、それから、緩慢な動作で、腰に差してある刀の柄に手をかけた。
 そのとき。
 そのとき、四人の中で、誰より、比較的冷静だったのは、織里ではなかった。ルウだった。ルウが、「織里ねえさんっ!」と叫んだのと、六東織里が、「通せッ!!」と悲鳴のような声を上げたのはほとんど同時だった。
 素早く、残像を夜闇に残す電光石火で、『春木』と織里の間に白虎が滑り込んだ――春木の白刃が、これも白い残像を残して白虎の腹に突き立った。
 その白い電撃のようなやりとりに、ユウヒと亘がようやく失していた我を取り戻すが――ほぼ同時に、刀を抜き去った『春木』が一息にその気配をふくらませる――これは、と亘の背中から汗が飛んだ。この気配は、しまった、――と、思うや否や、『春木』の背中からまるで黒い鉄砲水のように、すさまじい圧力の『気配』が襲いかかった――これは!と、その水圧に瞬間、息すら出来なくなる。
 ――神父が持っていた、あの、
 黒い、気配!
 「ぐぅッ」と低くうめいたきり、ユウヒも身動きがとれなくなった。脂汗が一気に冷えて消える感覚。内蔵が一度に全部縮み上がるのを感じ取る。これが、あの、春木と亘を追いつめた神父の『毒気』か……!!
 その本流に飲まれて、術士たちは悉く沈黙、織里も例外ではなく、従えていた屈強な白虎が、蝋燭が消えるように簡単にかき消えた。
 
 あたりに夜がやってきた。
 圧力に負けて地面に臥している『仲間』たちを、その黒い瞳で睥睨し、空色のサムライだけが立っている。
 必死に掴んでいないと、どこかに行きそうな意識の緒を、なんとかたぐり寄せながら、呻いて、ルウは起き上がろうとした。だが出来ない。神父の持つ毒気はここまでだったか? いや、確かにわれわれに毒することは体験もしたが、ここまででは、なかった筈。
 『きっと、昔、この国の術士と、外界の術士との交流で何か、が、発明されたのかも』
 薄れていく視界の端で、『春木』が、地面に転がる紅い本を拾い上げるのを見た。思わず「あっ」と声が漏れる。ちらり、と彼がルウのほうを見たように思えたが、その暗い瞳は視点も定かではない。
 それは、ダメだ、持っていかないで。やっと僕のところへ帰ってきた、大事な本。
 みんなに、それからアイツに、繋がる、大切な……。
 



 暗転した。











 明転する。
 


 ひやり、と頬が感じた時、意識は獣のように覚醒した。突然光を受け入れた瞳孔がとまどい、脳みそが信号に混乱して、しばらく景色がぼんやりとつかめない。一番最初に知覚したのは、嗅覚が受け入れた畳のにおい。それから――頬に触れていた、包帯だらけの指先を、視界が捉えた。
「起こしてしまいました」
 指先まで布を巻いた手を引っ込めて、きまじめな声が言った。「どこかまだ悪いですか」、と続く。感情が薄い。気遣わしげでもない。ただ真面目だ。七野なちは、頭を振って、唇を舐め、もう一度あたりを見回した。そこは質素で何もない和室だった。なちは簡単な床に寝かされており、四方は障子が固めている。それから、自分の枕元にいた青年を確かめた。
「五十嵐の……」
 長兄です、と、青年が丁寧に頭を下げる。両脚が無い。数時間前、なちが仲間たちと救出したその人、五十嵐家の晴次だった。彼は満身創痍だった。左手は首から吊っており、右手は指先まで布で巻かれている。精悍な顔の半分もまだ包帯が巻かれたままだった。その癒えていない傷を見て、ふいに、ついさっきまで一緒にいた四家当主のことを思い出し、なちは本当の意味で覚醒した。枕元に座っていた晴次の制止も聞かずに、床を飛び出して障子を力任せに引き開けた。まず身体に染み込んできたのは、夜の気配だった。開けた先は、単に廊下があって、向かいの部屋の障子の白がせまるだけだったのだが、廊下の先の暗がり、なにより、余韻をともなって耳に染み込む静けさが、夜を伝えてくる。あのとき、四家の屋敷で鷹久に付いていった時は夕時だった。あれから数時間以上経っている。そもそも、鷹久に付いて、五十嵐ルウと別れて――それから先の記憶があいまいだ。どうしても思い出せない。
「七野当主、動いては……」
「うるさい、五十嵐がアタシに命令すんな!」
 晴次の声もはねのけて、なちは脳みそを回転させるのに精一杯だった。五十嵐晴次がいるということは、ここは久住院、京都の筈である。あの時、神父との戦いを任せた場所――だが、この静けさは何だ? 神父はどうなった? 何故鷹久にいさんはここに居ないのか、そして、彼が、仲間の傷を癒しもしないで放るなんて――。
 探しにいかなきゃ、何より、あのとき置いていった仲間を誰かひとりでも見つけなきゃ。京都が今どうなっているのか、それが今一番の謎で、自分はその渦中に来たのだ。探しに出ない手が無い。なちは廊下へ出た。後ろから、「七野当主」と、再び晴次の声があったが無視した。なちは五十嵐兄妹を好いていない。それより、今の状況が知りたい――。
 「七野当しゅ、――」。五十嵐晴次の声が途中でとぎれて、ドサッという音が続いたのはその時だった。無視するつもりでいたなちは、その音に思わず歩をとめて振り替えざるを得なかった。なちの視界に入ったのは、姿勢を崩して倒れ込んでしまっている晴次である。なちを追おうとしてそうなったのはすぐ分かった。彼には両脚が無いし、さらに今は両手までほとんど使い物になっていない。傷に響いたのか、微かに呻いてから、起き上がろうとするが、手が使えない。何かものを考えるまえに、なちの両手が伸びていた。肩を貸すと、申し訳ない、という声が小さく呟かれた。
 瞬間、息が詰まった。そのとき、なちが支えていたのは、五十嵐晴次ではなくて、故郷のきょうだいの誰かだった。皮膚一枚ぶんの感覚だけが脳を駆けめぐった。逆説的に、自分が、当主である、という、鋭い閃光のような思いが胸中に射した。
 首を振る。だが、目の前にいるのは、五十嵐晴次だ。やっぱり、いけ好かない。五十嵐はだめだ。五十嵐は嫌いだ。晴次を助け起こして、床に寝かしなおして、布団をかけながら、なちはひたすら唱えるようにそう思っていた。
「それに……結界が張ってあります」
 なちに寝床に引き戻された晴次は、七野当主の言動と行動の不一致にポカンとしていたが、我に返ったようにして言った。「あぁ?」と、女子にあるまじき声で唸るなち。
「この部屋は結界に囲われています。出ることはできませぬ」
「あー!? 最初にそれを言えっ!」
 いや、待て。なちはそこでぐっと押し黙った。結界だと?
「……八代のチビ!」
 ――あいつも、消息を絶った京都勢のひとりである。ああ、その当事の場所の、真ん中にいるのに、動くこともできないなんて! なちは、本気で地団駄を踏みならしたい心地だった。しかも目の前には五十嵐。周りには八代の檻。最悪だ。
 鷹久にいさんはどうしたのだろう。本当についさっきまで一緒にいたのだが、突然、本を真ん中から引き裂いたみたいに記憶が切れている。何で、あたし、こんなところで置いてかれてるんだろう――考えれば考えるだけ、金切り声で怒鳴り散らしたくなる。誤魔化すように首を振り振り、唇を噛んで――そこでふと、視界の端に、紅い残像を感じて、動きを止める。部屋の隅だ。

 紅い本があった。












 四人を助けたのは、六東の家の者たちだった。
 いつまで経っても連絡がちかないのをいぶかって、織里の実弟である律人を筆頭に五十嵐に飛び、倒れている四人の当主を発見、保護して、吉野の山に避難したとのことだった。ルウが目覚めた時、時刻は夜明けごろだった。吉野山には古くから多くの鄙があり、そのひとつにいた。身体が信じられないくらい重かった。引きずるように起こすと、そばで看病をしていてくれたらしい少女が、気遣うように背中を支えてくれた。
「お気づきに。お水をお持ちしますね」
「……きみは……」
 黒髪の、桃色の着物姿の少女だった。年の頃は十二、三だが、真っ直ぐ人の目を見て話す、その強いまなざしが兄に似ている。「一ノ瀬春花です」、と少女は頭を下げた。
 ルウの息が詰まった。それは、覚醒にしては、ジワジワといやみったらしくやってきた。じっとりの背中から、脂汗が、思い出したように浮き始めた。ああ……、と吐息が漏れた。
「他のみんなは……」
「あちらに。あっ、ルウくん、早くユウヒ先生に会ってください。すっごい心配してて、怖いくらいです」
 一ノ瀬春花は一度も兄の所在について言及しなかった。それは後ろめたい気配はなくて、こちらが見ていて、胸のすくほど、清々しい信頼感に満ちていた。言えなかった。言えるわけがなかった。こんな健気な少女の前で、ただでさえ、自分でも認めたくないのに。
 隣の部屋に織里がいた。声をかけると、あら、起きたの、と微笑み、ルウの髪の毛を櫛で梳いてくれた。織里ねえさんの、怒鳴り声、初めて聞いたよ、と囁くと、やだ、ルウちゃん、忘れてよ、と笑った。お願い、忘れて、忘れてよ、と織里は独り言を繰り返して、ルウには、それが、忘れたい、忘れたい、と泣き言を言っているようにも聞こえた。
 奥の部屋には、ユウヒと亘がいた。亘はまだ伏せっていて、それをユウヒが看ていた。ルウに気づくと、「オウ」と曖昧に一瞥して、すぐに視線を亘に戻した。
「まだ起きないの」
「身体弱っとる所に、精神的にシンドイの食ろたんや。ま、休ませるのにはエエ機会やろ」
 と言って、亘のフワフワの頭を一度ペシッとはたく。亘は深く眠っているらしい。寝息も聞こえない。
「ユウヒ、ぼくのこと心配してたって、本当?」
「ちゃうわ、ボケ! オレァ春花ちゃんの心配をしとったんやっ、お前の心配なんぞするかい」
 それから、ユウヒは、ぼそりと、「お前、一人称、戻ったな」と呟いた。
「え?」
「昔にもどった。六年前に」
 ああ、とルウは口元に手を当てて、天井をあおぎ、そうだね、と息を吐くように言った。ユウヒだって、本当はずっと前に気づいていて、そしてそれを口に出すつもりは無かった。変わったんやなぁ、と、ここ数日さまざまな決意をしあっていたなかで、そう思っていた。
 昔に置いてきたものを拾いに戻る作業。退化のベクトルをした進化。
 しばらく沈黙が続いた。ルウは幼なじみに近づいた。そしたら、絞るような声で、ユウヒが「見んといて、」と漏らした。
「こっち、見んといて」
 背中合わせに座った。ユウヒの丸まったせなかの、背骨の感触がする。ルウは、幼なじみの、その、震えもしない、声も上げない、信じられないくらいによく押さえ込まれた慟哭を、彼の脊髄の中から感じていた。

 一ノ瀬春木が死んだ。



















どうでもいいはなし
①春木妹は、以前男勝りだったルウのことを男の子と勘違いして爾来「ルウくん」と呼んで、みんなが訂正してもなかなか治りません。
②なちを晴次の所へ運んできたのは八代のおちびです。
③生ハムメロン食べたい
 

ハルシオン・ブルー外伝十八

 マスター、と呼ぶその声に、奇妙なむずかゆさを覚えたのはいつの頃からだっただろう。
 そもそも、彼と一緒に過ごした日数自体がほんのわずかの話だ。一週間も一緒にいなかった。結構後になってその事実に気づいて愕然としたものだが、ほんとうに、ほんの一日二日で、僕は、彼の声だけでおかしくなるくらい、変な具合になっていた。成熟した(兄のような)低い男声ではなかった。だが、幼なじみの亘やユウヒのような、まだ高音が残る男子の声でもなく、やけに元気がよくて、色に喩えれば原色のようなはつらつとした感じだった。
 彼の声を聞くと、内臓の奥の方が熱を持って、なんだか気持ち悪くなってくる。甘酸っぱいとかそういう次元ではなくて、とにかく、吐き気一歩手前の症状に見舞われる。
 水色の髪の毛を見るだけで、ぼおっとしてしまう。これでどんな風に景色を見ているのだろうと不思議になるくらい色素が薄い瞳も。足音も、白い指先も、腰掛けた時に見える背骨も、靴の先っちょまで。
 ものすごく戸惑った。だって、あきらかにおかしい。異常事態だ。ヘンである。不可解すぎる。その症状の名前も分からないし、対処の方法も。ユウヒか鷹久にいさんに聞けばわかるかも、と思ったが、その先を予想して、どちらも願い下げになった。
 いっそ、彼本人に聞いてみるのはどうか。彼は、様々な時代の、様々な国に召喚されてきた、最高位の霊である。一応。たぶん知っている。だが、切り出し方に悩んだ。「最近、オマエを見てると、なんかヘンになる」と言うべきか?それはなんだか、わけもわからず、僕の自尊心に障った。
 兄様に聞くなんてさらに出来ない。……僕は、ぼくの近い周辺に、こういう、どうでもいいことをどうでもいい感じに切り出せる人間がいないことを密かに恨んだ。ああ、刃音が、僕の家の隣に住んでいたら!
 
 ――……いったいさっきから、百面相して、なにが楽しいんだ、マスター?

 ――ぎゃあ!!

 ――なんだ、幽霊が出たみたいに。……幽霊だが?

 ニヤニヤして、僕のシキガミが立っていた。僕の耳元のすぐ近くに奴はいたので、僕は思わず彼を殴り倒さんという勢いで突き飛ばしてしまった。そしてそのあと喧嘩に発展した。

 結局言えず仕舞いだった。分からないままだった。この数日後に彼は消えてしまった。
 だが、僕の中には今、彼の記憶がある。いつもはそっとしまってある。フタは意識して閉じてある。いつかそこの扉をノックして、ねえ、こんなに苦しかったんだけど、どういうわけか、教えてくれる?と、聞いたら、たぶん答えが返ってくる。彼はニヤッとする。

 ――ああ、なんだ、マスター。実に簡単な答えだ。それはな……





ハルシオン・ブルー外伝十八



 五十嵐の屋敷は、最後に見た時のままだった。つまり、神父にめちゃくちゃに瓦解されたままだった。さすがにくすぶっていた煙は居なくなって、あの騒がしさの代わりに、疲れたような沈黙に満ちていた。時間が既に夜に近かったのもあるが、それは、四家の土地にあったような、神域のような静謐ではなく、六東のあの喧噪でもなく、久しぶりに帰った当主を嘆息と共に受け入れる老人のようで、なにやら居やすかった。
 織里の西瓜丸から飛び降りるや否や、ルウは敷地の端にある蔵へ直行した。ユウヒや亘はそのあとを走って追いかけねばならなかった。ユウヒの、「待てコラ」という怒号も全く無視して、ルウは何かに憑かれたように蔵へ向かった。彼女の頭ほどの大きさと、掌ほどの厚さを持つ錠前を前にして、なんの躊躇もなく、符術でそれを破壊する。夢中になった五十嵐ルウは恐ろしい。六年前からその認識はさらに深刻になったと思う。当主達はその、殆ど殺気のようなものを放っている背中を見ながら思っていた。
「あんな! オマエの言うその本、それから見つからんと言っておったろ!?」
「うん。そのときはね」
 ルウは振り向きもしないで、蔵の中をあさり始めた。その手先は、目的物以外全く頓着していないようで、他の蔵書や、所蔵のものは引っ張り出しては放り投げ、積み上げられた本は崩していく。なちが見ていたら殺されかねない。亘は急いで蔵の換気窓を開け、ユウヒは洋燈に火を入れ、織里は珍しそうな置物を楽しそうに見ている。
「そのとき!?」
「きっと、そのときの僕には必要じゃなかったから見つからなかったの。あの本、そういう本なんだよ、きっと。今思うとそんなかんじ」
「あら、古いまじないね……」
 そうかも、と織里の見解に短く頷いて、本の海をルウは掻き続けた。
「今思えば、あの本の文字は英語だったの。あの時は、知らない言葉だとしかわかんなかったけど。古い英語のまじない書で……そこに……殴り書きで、漢語の詠唱が書いてあったんだ」
「――……何で、ここの蔵に異国語の本なんかあったんだろう。どうやって手に入れたの?」
「うん。一度、僕らが大結界を創る以前に、異人を受け入れた時代があったから、その時のものだと思うんだけど」
「そん時、この国の術士と、外の術士が会ってたちゅうことか」
 あら、まるで、今の状況みたいだわ、と織里が微笑みながら呟いた。ただし、状況はずいぶん違ったようだ。今、日本の術士は外界の術士・神父と敵対しているが、一時代前は、読本を残していく程度の仲ではあったということになる。
「そこに殴り書きしてあった一節で、僕は神霊を呼んだ。ほんとは、もっとたくさん、大変な苦労をしなくちゃいけない、神霊召喚ができた。きっと、昔、この国の術士と、外界の術士との交流で何か、が、発明されたのかも」
「……もし、そうやったとして、それが、オレ達の状況の何を進展させるっちゅうんや」
「京都で何が起きたのかわかるかもしれないってことかしら」
 それも、あるし、とルウは相変わらず、話し相手に背中を向けたまま、呟いて、
「なんか、あらゆる問題と、分からないことの、その端っこを掴めそうな、気がするの」
 もうもうと埃が舞っていた。採光窓から、夜の藍色が蔵の中にしみ出していた。あの日は昼間だったな、と思う。五月晴れの日で、汗で体はべとべとしていて、埃はもっとねちっこく沈殿していた。ルウはそんなことを思い出していた。探してもいないのに、あの紅い本を見つけた。探してもいないのに――
 ぴたり、とルウは動きを止めた。今度は何だ、といぶかる当主達の前で、今度はきびすを返して、五十嵐当主は蔵を飛び出していった。「はっ!?」と絶句する二名当主に、亘は「ちょっと」と追いかけ、織里は「あらあら」と首をかしげている。亘は追いかけようと駆けだして、でもすぐにその足を止めた。飛び出していった少女は、蔵の入り口のところで立っていた。どうしたの……、と、声を掛けようとして、亘は、自分の、五感の枠を外れた何かが、急激に冷えるような、ぞくっという、音を聞いた。
「あった……」
 まるで待ち受けていたように、蔵の出口の、つまりルウが立ちつくしている、すぐそこに、紅い綴じ本が落ちていた。いや、なんだか、置いてある、という風情だった。来た時はなかった。だって蔵は錠がかかっていた。さっきルウが、本を放っていた時のごたごたに紛れて、ここに居るのか。
 それはしたたるような紅だった。本当に、何故気づかなかったのかと疑うほどの存在感で満ちていた。触れたら火傷をしそうだった。
 最初に動いたのはルウだった。それを優しく拾い上げた。埃まみれの自分の手を衣服で清めてから、表紙に手を置いた。温度を計るような仕草だった。ユウヒ、亘、織里はそれぞれ、ルウの後ろについて、それを開かれるのを待った。廃墟の夜は不思議な静寂に満ちていた。ルウが本をめくった、ぱらり、という紙擦れの音さえ、耳に響いた。
 そこに書かれていたのは確かに異国語であった。紙と綴じ方が和風なので違和感がある。文字はブルーインキのペンで記されている。紙は黄ばみ、紙魚が巣くい、ページは手繰るごとにぺりぺりと不思議な音を立てる。ルウ以外の当主達は当たり前のようにその異国語を解さなかった。貿易をつかさどり、なおかつ、異人のシキガミの記憶を承継した五十嵐ルウだけがそれを操れる。
 五十嵐ルウはあるページで手を止めた。ブルーインキは文字列から難解な図形になっている。その間に割入るように殴り書きがある。正直、へたりこみたい気分だった。ああ、と吐息が漏れて、体の中心が酸欠になる。
そこに六年前と変わらない、謎の文字列があった。漢語である。五十嵐ルウが、神霊を呼んだ、あの正体不明の詠唱である。
 マスター、とどこかの記憶から声がする。それは、めいっぱい、息をするのも忘れて、思考の歯車を回し続けていたルウの脳みそを優しく融かした。一瞬気が抜けるともうだめだった。水が染みるように、ルウの緊張の糸の間を水色の風が吹いた。後ろから幼なじみたちが、気遣わしげにルウの名を呼んだ。でも反応できなかった。六年前の初夏が全部ルウの肩にのしかかっていた。大結界を壊した夏が。
 もういない。もういない。たぶん、もう呼べない。そんな気がする。そういう時じゃない。僕がアイツに会いたがっている時じゃない、僕はいま、京都のみんなを助けたい。
 ……「自惚れないで」と、真っ直ぐな目で僕に言ってくれた、親友の元に行かねばならない。
「……ルウちゃん? 大丈夫?」
 気づけば、織里が、ルウの双肩を抱きしめていた。「あっ」と、何かにつまづいた時のような声を出して、ルウの身体が震え、紅い本を取り落としそうになって、それから、「うん」と、とってつけたように首肯する。
「大丈夫……。ちょっと、前のこと思い出した。そういう場合じゃないね、ごめんね」
 ユウヒがそこで、大げさに嘆息して、「それで」、と大きな声を出した。「何か解ったんか」。
 それは多分助け船だった。ルウは、とても自然な流れで、その場が切り替わるのを感じて、内心肩をすくめながら、「あのね……」と切り出した。
「これ、神霊の本だよ。百年くらい前にこの国で書かれてる。書いた人は多分、大英帝国圏の魔術者」
「異国の神霊ってことは……神父のこと、なんかわかるんか!」
「うん。よく考えるとなんかヘンなんだ、アイツ、神霊なのは確かだと思う。神霊は本体があるから、いっぺん消えても、アイツは呼ばれればまた出てくる。だからアイツ、自分は僕たちには殺せないって言った。でも……」
「ああ……そうか……! 神霊の召喚には、何百人の生け贄か……大術士が生涯を掛けるくらいじゃないと……」
「そうなの。そんなに、すぐさま召喚し直される筈ないんだ。僕の場合は……奇跡みたいなものだったと思うし」
 でも、ハッタリじゃなかったわよね、と織里。それには、ウン、と頷いて、ルウは紅い本を一度閉じた。
「アイツは神霊だよ。でも、誰かが呼んだんじゃなくて、自分で来たんだ(、、、、、、、)
「はァ!? どういうことじゃ!」
「神霊はコッチから呼ぶ時はたくさん犠牲が必要だけど、向こうから自発的に来る時は、そんなの要らないんだって書いてある。僕たち、そもそも最初の情報が間違ってたんだ。アイツ、異国が僕たちを征する為に呼んだんじゃないよ。自分で、自分の目的のためだけに来てんだ」
「えっ、ちょっと待って……! おれたちの敵は、じゃあ、外洋じゃないの……? それに、じゃあ、官軍は、誰にそそのかされているの……?」
 おれたち、誰に攻められているの、と亘が震える声で言った。ルウが噛み締めるように続ける。
「僕たち、最初、外洋つまり神父の勢力と、術家、あとこの国の三勢力で考えてたよね、でも、たぶん神父は単独勢力で、外洋は無関係だ。そして、神父以外は、あと、僕たちと、京都のみんな、それから官軍の三勢力でしょ」
 あれっ、と声を上げたのは亘である。ユウヒはすごく難しそうな顔で口元を押さえている。亘が理解する前に正しい盤面に気づいたのであろう。それは、しまった、という顔だった。
「なんやねん。この構図、外洋から見たら、オレたちの内戦(、、、、、、、)が都合良く起こってるだけやんけ……!」
「……この状況に持ってくことが神父の目的ね。敵城落とすには最高の好機よねぇ~」
「え! じゃあ、待って! もし、今が攻めの好機って気づいた外洋がさ、来たら!」
 大結界はもう無い。抑止力となっていた術家は二派分裂状態、官軍は出払っている。ここで戦争が起きたら間違いなく負けるのは自明だった。
「くそっ、出し抜かれたっ! 各地の術家は今もぬけのカラやで、鎮守台も探題もやっ! とにかく――はよう、オレ達が立て直して――京都のみんなをまずどうにかせんと……」
「いや……京都には行けない。八代の結界は僕たちにはどうしようもないよ。だから、僕たちは官軍をブン殴りにいこう。それで敵は外洋に有り!って言う」
「信じて貰えるかしら?」
「僕らの正統性が、まだ力を持つのなら」
 ダメだったら実力行使ね、と、織里が物騒なことを言いながら、愛獣達を封じた呪符をひらひらさせた。先ほどからのめまぐるしい展開に、常に一定のテンションのままなのは彼女だけである。その状況把握能力というか、とても良い意味でのあきらめの良さみたいなものに、ルウは内心恐れ入っていた。動揺や当惑はバサバサと切り捨てて、次々起きることに順応していく。ああ、織里ねえさんはいつまでも織里ねえさんなんだろうな、と、思ったら、ざわついていた心中がやや落ち着いた。
「でも! それが最善策なのは解るけど……! 春木兄さん……」
 心配だよ、と泣きそうな声で亘が付け加えた。ユウヒも唇を尖らせてものすごく不機嫌そうに舌打ちする。何かを言いたそうに首を振って、一瞬ルウを睨み付け、鼻をこすって、大きく息を吐いた。
「でも、オレら、当主やもんな。やいやい言うてたら、示しが付かんか」
 ――オレも、そうする!!と、大きく叫んで、ユウヒは真っ直ぐないつもの瞳でルウを再び睨んだ。ルウは、ニヤリとして返した。ああ、ここ数日、こうして決意しあってばかりだ、とルウは気の遠くなるような、不思議なまぶしさに満ちた郷愁を鼻の奥で感じた。亘も、自分を納得させるように首を振って、大きく息をつく。
 行こう、という、声無き決意が四人の間の空気に滲んだ。その空気に、ひらり、舞い込むように、感じ覚えのある空気が舞い込んだ。それは、神父がまとう、あの、空気だった。四人が一斉に目の色を変えて、気配の方へ振り向いた。ユウヒが三人を庇って前へ出た。そして、神父の気配をまとって現れた人物に瞠目した。亘が嗚咽のような声で漏らした。
「春木兄さん……」

 


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